ディーツゲン『論理学に関する手紙』               (06.9.28) #第1の手紙  論理学は全ての学科の基礎科学である。この論理学について、私はどの大学教授よりも良く講義することができる。 なぜなら、知識の少ない人は誰でも公式的な知識の規定通りの束を知性の中へ詰め込んでいる人よりも、ヨリ容易に 最後にはその僅かなものを充分に明らかにすることが出来るのだから。  私がこのようなことを言うのは、教えるという私の役目を権威づけることで、お前に学習への信念を与えるためで ある。この信念によって、学習に必要な注意力と理解力とが得られるのだ。 #第2の手紙  論理学の研究対象は思想・思想の本性・思想の正しい秩序であり、論理学の目的は人間精神に固有な活動を人間精 神に教え、我々の内面的な頭脳を正しくしようとすることである。人間は論理学なしでも考えるということを理解し ているけれども、論理学を使うことによって思惟能力を発達させることができる。 #第3の手紙  個々のどんなものも物神にできることから分かるように、全一のもののみが真の神あるいは真理および生命である。 論理学は真理における思想を研究するものである。従来の論理学には形而上学的論理学と形式論理学とがある。形而 上学的論理学は論理的秩序を天上に至るまで確かめようとし、形式論理学は形而下的世界における論理的秩序の研究 で満足する。 #第4の手紙  思想上の業績は文化の成果において明瞭に現われる。つまり、知性の働きの進歩は民衆の発展と連関している。こ の点をさらに一般化すると、人間の精神はそれと異なる物質的世界と連関してのみ生きて働くということがいえる。 この連関について従来の論理学は次のように考えてきた。形而上学的論理学は度外れであったため、精神は私たちが 生きている世界ではない度外れた世界と結合され、一方で形式論理学はこの連関を見落とし、思惟の機関を孤立させ た。だが実際は、思想・知性という存在は全存在の一部分として世界全体と連関しているのだ。 #第5の手紙  真理は絶対的に全てを包括する。思惟は、それが妄想や誤謬を含める場合でも、現実および真理の一片である。つ まり、人間精神の対象は存在全体あるいは真理という無尽蔵のものである。古い論理学は、思想は現実と一致すべき と考えてきた。だが、思想はそれ自身が現実の一片であり、概念あるいは認識は決して現実と一致しない。たしかに、 認識において間違った像と適切な像とを区別することは可能であるけれども、間違った像も客体に似ている点を含ん でおり、逆に似ている像もその客体との完全な一致とは程遠いものである。 #第6の手紙  論理学を学ぶ人にとって必要なのは、真なる諸概念を集めることではなく、真理の普遍的概念を明らかにすること である。そして、論理学の目的は知性が真理の世界と結合することによって得られる思惟能力の養成である。また、 論理学は我々が生活しているこの世界のみを問題にすべきである。なぜなら、我々が生きているこの世界のみが真の 唯一の世界だからだ。 #第7の手紙  諸科学が諸々の真理について我々に教えるのに対し、論理学は真理一般を扱う。  あらゆる事物はそれが存在の単なる一部分であろうとする限り、この部分は制限されなければならない。我々が言 語を使う際には本能的に多少そういうことをしているけれども、意識的な科学はそれを精密な方法で実行する。 第8の手紙  形式論理学は区別することの意義を度外れに拡大し、事物が分離しているだけではなく連関しているということを 見損なっている。あらゆる区別は、全てを包括する事物に対する関係においては、微少で相対的なものに過ぎない。