ディーツゲン読書会「論理学に関する手紙」          2006.9.29                                第一の手紙 (私のテーマの核心=形式論理学とプロレタリア論理学との区別の問題) 生活という大学への出発に向けて、すべての学課の基礎科学である論理学を教授する。この内容は大学教授よりも優 れていることをまず信じて、精神的労働によって理解をすすめていく必要がある。 人間はすべて平等であるというプロレタリア論理学の思想は、論理学そのものの帰結であり、世界中に広まっている。 さらに論理学の理解はブルジョアの世界をからめつけている全ての偏見の克服を要求するため、論理学はプロレタリ ア的という副題に値する。 資本主義的民主主義とプロレタリア的民主主義との対立は、アメリカでは地理的な条件で消え去っているが、プロレ タリア経済学の知識があれば、資本主義がいかに発展しているかということ、初めは民族を奴隷にするが後に解放す るという資本主義の二重の課題を見抜くことができる。 第二の手紙 (対象を指先でつまみ上げて、その概略を示した) 論理学は人間精神に固有な活動を人間精神に教え、我々の内面的な頭脳を正しくしようとするものである。人間は考 えることによって生まれつきの思惟能力を発達させるが、時が経つにつれ思惟能力生明確な意識に、そしてその技術 的な使用に到達する。思想は毎日の生活において不可欠であるから、概念活動の本性を洞察することは有意義である。 ただし、この論理学は逆立ちした頭を正しくしうるほど大きな効用を持つと考えてはならず、あまりに小さく考えて 無益なものだと判断してはならない。 理解が困難な未知の事柄を理解するときは、まず問題について表面的に知り、部分を掘り下げ、最後に端緒にもどり、 そして何度も繰り返すという方法が唯一の正しい方法である。 第三の手紙 (対象の色合いを指摘し、それが不可避的に宗教的なものに変わっていくことを示した。論理学という主題がいかに してある種の宗教的備考を帯びるか。) 人間の魂全体を偽の神に夢中にさせる対象は、その高さと尊さとの点ですべての対象と共通しているものであり、同 時に普通の対象でもあるということを知らねばならない。このような意識を弁証法的に浄化しなければすべての崇拝 は物神崇拝である。どんな個々のものをも物神にすることができることから、全一のもののみが真の神であり、これ は論理学でもあり神学でもある。  論理学は真理における思想を研究するが、形而上学的論理学では真理を天井に至るまで確かめようとする。一方、 形式論理学では自ら制限された領域を儲け、形而下的世界における真理の研究で満足する。 実践的限界は絶対的限界ではないのだから、人類の形而上学的な、すなわち無限の発展能力を目指す思想を放棄して はならない。 形式論理学者には形而下的なものと形而上的なものとの分かちがたい連関を否定する者、宗教的悪用に対して反感を 持ち宗教については何も聞こうとしない者がいる。 第四の手紙 (論理的主体は世界の存在全体と連関していること、思惟能力は現実の真理の不可分の部分であること。人間精神を 生きている真の神の部分として叙述した) 一般に事物の形態はその連関によって変わるものであって全存在の部分としてのみ、その現に在る形をとるものであ る。人間の精神もそれと異なる物質的世界全体と連関しており、いかに空想と賞せられる精神であろうと存在全体の 一部分として現世的な内容と結合している。  論理学的に無理解である場合はこの精神と世界の存在全体との連関を見落としてしまう。形而上学的論理学では精 神と世界の連関を見るものの、精神は世俗的な事物から由来するのではなく、知性は法外な性質を持つという偏見に とらわれ、度外れな空想的世界と結合すると捉えている。一方、形式論理学では精神と通常の世界との間の連関を見 損ない、思惟の機関を孤立させ、それが自然的連関または超自然的連関を持つのか、あるいは連関を持たないのかと いう問題に解決を与えない。 第五の手紙 (論理的主体は世界の存在全体と連関していること、思惟能力は現実の真理の不可分の部分であること。人間精神を 生きている真の神の部分として叙述した) 唯物論では思惟と脳髄との連関のみを確かめればよいと考えている。本来論理学者は、精神を含めた世界全体が論理 的に、全面的に結合していることを指摘しなければならない。古い論理学では真の思想は現実と一致すべきであると 主張するが、真の思想と真でない思想はどちらも現実の一片にすぎず、ヨリ似ているか似ていないかは多少の程度の 差であるにすぎない。すべての存在は異なるとともに一致している。これらを理解するには一元論的な考え方が必要 である。 人間の知性が現実の真理および真の現実の一片として認められるならば、同時に断片的でない真理すなわちすべての 存在の総計は、すべての存在を包括する絶対的真理であることが明らかになる。 第六の手紙 キリスト教のように存在全体の一片に過ぎない精神を神として崇拝する者は偶像崇拝主義者である。論理学は知識主 体の分析だけではなく、知性と真理の世界との連関を捉えて人間の頭脳の普遍的解明を志す。この目的のためには、 専門的知識の堆積よりも真理の普遍的認識の方が役に立つ。そしてこの解明はすべての研の基礎となるため、基礎的 解明と名付けることが出来る。  しかし形式論理学では思想そのものの分析は行うものの、思想と認識とはどのように真理に関係するか、神的なも のとは何かを不問にしている。一方、歪んだ論理学を持つ人種は、世界の真理を誹謗し、度はずれにも哲学的形而上 学的・宗教的に求めようとする。 第七の手紙  言語についての科学 ⇔諸々の国語についての科学  哲学的論理学    ⇔   他の諸科学 ○言語の起源   時間的なはじめ  神が賜ったor天才が発明した   観念的な起源    存在の多様性全体が矛盾なしに一つの性質のものであり、この一つの性質が別れて多様の形態になる ex.言語 全一を1つの名前で名付ける → すべての存在の統一(環を形造る) 全一の特殊化        → 無限に多くの名前を必要とする ・抽象的な区別の解明には論理的解明を必要とする 第八の手紙 ○形式論理学              ○プロレタリア論理学 ・知性を「独立の」事柄として扱う    ・知性を全一と連関している ・事物の分離かつ連関という弁証法性   ・問題は形式的な差異のみ  を見損なう              ・矛盾の解明 ・形式的ではなく度はずれ 矛盾のため世界真理の認識は困難  対立物の間には形式的な区別があるが、この区別は相対的である。 ○カント  ・我々の目と耳が精神および世界真理全体と不可分に連関すると指摘  ・真理の普遍性を認めなかった    ↑  ・各々の理智および各々の思想は、必然的に普遍的な思想の性質を持ち、そして合理的に、一つの・普通の・経験 的な・世界の一部分・一定の部分でなければならない 形式論理学者は知性・思想を孤立した事柄として扱い、経験的世界との必然的連関を除外している。事物は分離する とともに連関するという弁証法的な性質を見損なっている。一方、プロレタリア論理学では、知性はすべてのものお よび全一と連関していることを明らかにする。