第一の手紙  論理学は全ての学科の基礎科学である。学校にも生活があり、生活にも教育があるのだから、私はお前の大西洋を 渡る旅行を生活という大学への出発と見なし、論理学の教授の役目をしようと思う。  わずかしか頭の中に持っていない人は公式的な知識を詰めこんでいる人よりも容易にそのわずかなものを十分に明 らかにすることができるのだから、私はドイツ国立大学の教授よりも論理学の教授として適任である。私がこういう のは、教えるという私の役目に権威を与え学習にある信念を与えようとするためである。生徒は必ず先生の知恵を信 じなければならず、そうしてこそ必要な注意力と理解力を得ることができる。事物についての知識と洞察力がすべて の権威を余計なものにするのはその後のことである。  論理学は難しい、わからないという非難が加えられているが、精神的努力がなければどんな新しいことも学べるも のではない。  私が「プロレタリア的」という副題をつけたのは、論理学の理解が、ブルジョア世界をからめつけている全ての偏 見の克服を要求するからである。 第二の手紙  論理学は人間精神に固有な活動を人間精神に教え、我々の内面的な頭脳活動を正しくしようとするものであり、思 想、思想の本性および思想の正しい秩序を研究対象とする。農学の講義が始まる以前に田畠がすでに耕されていたよ うに、人間は論理学を知らなくても考えるということを理解している。しかし人間は使うことによって思惟能力を発 達させてよりうまく利用できるようになり、農夫が農業科学に到達するように論理学に到達して、思惟能力を技術的 に使用することが可能になる。  すべての他の科学と同じように論理学も歴史を持っており、アリストテレス、フランシス・ベイコン、デカルト、 カント、フュヒテ、ヘーゲルといった偉大な哲学者たちが、いかにして悟性と理性が科学に到達するかを研究してき た。しかし、私は論理学が光栄ある歴史を持っていることを指摘するに止め、それを今日の高さに到達した最も明る い光のもとで示すことに努力しようと思う。そうすれば論理学の歴史を見るうえで籾殻を小麦からふるい分けること が容易になるからである。  私はある著者から未知のことについての講義を受取るときには、先ず問題について表面的に知り、その多くの項や 節について知り、それから端緒に帰り、幾度も繰り返すことによって完全な理解に達するという方法をとった。私は お前にこのような方法を論理学の研究のための唯一の正しい方法として推薦するが、これは科学そのものの本来のテ ーマでもある。 第三の手紙  あらゆる個々の対象が、人間を熱狂させその魂を支配する性質を持っている。この意識を弁証法的に浄化しなけれ ば物神崇拝になってしまう。個々のものではなく全一のもののみが真の神、真理および生命である。この意味で、論 理学は同時に神学でもあり、形而上学的である。  ところが、天上の領域と悟性的領域との避けられない連関を否定する論理学者も存在する。これらの人たちは、最 も高貴なものを分析的批判から守ろうとするのであれ、宗教的悪用に反感を持ってのことであれ、科学を顧慮しない 形式論理学に仕えているのである。  論理的秩序を天上に至るまで「すべての知識の最後の問題」に至るまで確かめようとする形而上学的論理学に対し、 形式論理学は自ら制限された領域を設け形而下世界における論理的秩序の研究で満足する。しかし、実践的限界は理 論的限界でも絶対的限界でもない。人類の形而上学的な、すなわち無限の発展能力を目指す思想を放棄するようなし みったれたことはするべきではない。 第四の手紙  世界連関の事実は、すべてのものは分離した対象であるという訓練されていない偏見とは矛盾する。一者は他者と 連関し、世界連関全体においてのみ、そのようなものでありうるというためには、論理学の訓練を必要とする。人間 の精神は、それと異なる物質的世界と連関してのみ生きて働く。すべての存在の有機的統一の承認が私の論理学の軸 点である。  古い形而上学的論理学は、知性は法外な性質を持つという偏見にとらわれていた。形式論理学は精神と通常の世界 の連関を見損い、論理学が現実的であるように現実が論理的であることを見損っている。  思想・知性は具体的に実際に存在し、全存在の一部分として世界全体と同種類のものとして連関している。空想と 称せられる精神の奔放な部分さえ現に存在し現実界に属するだけでなく、必ず実在するものの似姿なのである。  形式論理学は、表象・概念・判断・推理等々…、精神を細かく分析していくが、精神は存在全体とどう関連するか という、最も興味のある問題については説明しようとはしない。  論理学は、すべての学科が必要とする区別の能力、すなわち真理と誤謬、空想と実在とを識別する所以のものを教 えるべきである。この目的のためには、誤謬や空想もまた現実界に属することを説かなければならない。 第五の手紙  論理的に訓練されていない人にとって概念を混乱させるものは、体系的・論理的・統一的という意味での一元論的 考え方の欠如である。世界のすべての部分は、無制限な唯一の真理及び現実の制限された断片であり、世界のすべて の形態の存在は、精神を含めて、同種的に結合しており、血統を同じくしている。知性もまた現に存在しすべての他 の存在と同じ存在を持つ。  真の思想を真でない思想から区別しうるためには、思惟は最も奇妙な妄想及び誤謬を含める場合でも、現実及び真 理の一片であることが見損なわれてはならない。真の思想と真でない思想はあらゆる差異にも拘らず、一つの真とい う種類に属している。「真理そのもの」は現実、世界、全一、無限者及び絶対者と同じ意義の表現であり、絶対的に すべてを包括する。  「真理そのもの」は断片的にのみ人間の頭に入る。それ故認識は決して現実とは一致せずいつでもその一片である にすぎない。認識には適切な像と間違った像があるが、間違った像にも似ている点があり似ている像もその客体との 完全な一致には遥かに遠い。 第六の手紙  論理学は人間の頭脳を普遍的に解明し、精神を技術的思惟のために解明しようとするものである。専門的知識がい くら増えても、知性の技術的使用は当該の細目においてだけ促進されるだけであり、頭脳の一般的明晰からは遥かに 遠いところにとどまる。論理学を学ぶ人にとって先ず必要なのは、真なる諸概念を集めることではなく、むしろ真理 の普遍的概念を明らかにすることである。  思惟能力の分析に制限される論理学は、思惟能力を生きた活動として叙述する論理学に比べて制限された論理学で ある。論理学で問題にすることは、知性と真理すなわち存在全体との連関によって得られる思惟能力の養成である。  自然科学者は専門的知識によって世界の部分を解明し、普遍的真理を総括的に対象にする哲学的研究に対して反感 を抱いているが、これは間違っている。世界全体は無機的な断片の堆積ではなく、生きている過程であり、この過程 はその諸部分においてのみではなく、全体としても認識されねばならない。  論理学は、我々と我々の思想と分かちがたく結合している事実の世界のみを問題とすべきであるが、世界こそが真 理であることを認めず、真理を哲学的形而上学や宗教的妄想の中に求めようとする人たちも存在する。しかし、人が 存在について争うといっても問題となるのはいつでも存在の形態についてであり、存在そのものはいつでも争う余地 のない真理である。 第七の手紙  言語についての科学が言語一般を扱うのに対して、諸々の国語についての科学は個々の国語を教える。これと同じ ように、論理学が真理一般を扱うのに対して諸科学は諸々の真理に関して我々に教える。  言語学は論理学の助けがなければ解決できない、言語の概念的起源という困難な問題をも扱う。また、事柄を混乱 させるもうひとつの契機として言語と精神の関係の問題もあるが、すべての事物が意味を持ち、言語を語るとみなし ていい。我々は何処でも精神を見出す。言語だけでなく世界が精神と関連するのである。  精神と同じく、言語は存在し、一般的な無限な存在に関与している。全一を名づけるには一つの名前で十分である という事実は、すべての存在の統一が疑いもなく明瞭に証明されていることを示す。すべてのものが無限に多数であ るのみでなく、また無限に一つであるから、全一が一つの名前を持つことは、必然的、論理的である。  言語は全一を特殊化するためには無限に多くの名前を必要とする。言語と関連する精神が、無制限のものを言語に よって制限しようとする。意識的な科学はこれを精密な方法で実行する。  存在の多様性全体が矛盾なしに一つの性質のものであり、この一つの性質が分かれて多様の形態になる。世界のす べての部分について認識されるべきことは、人間の頭脳の普遍的解明である。   第八の手紙  形式論理学は事物を区別することの意義を度外れに拡大し、事物は分離しているだけでなくまた連関しているとい う弁証法的な性質を見損っている。我々は多様性は統一であり、変化するものは恒久であり且つ恒久なものは変化す ることを学ばねばならない。形式論理学は、矛盾は存在しないと教える一方で、お互の共同性も持たないところの本 質的な区別が存在する、すなわち矛盾する事物或いは矛盾が存在するという信仰を固持しており、自己自身に矛盾し ている。  いわゆるプロレタリア論理学は、すべてにおけるすべてのものを含むところの世界全体、世界真理を扱うが、この 世界真理の認識を特に困難にしているものは、その中に生存しているいわゆる矛盾である。世界全体は無限にして無 尽蔵の矛盾であり、この矛盾は無数の意味深い命題と反命題とを止揚して自己の中に含み、これらの命題は決して消 失はしないが、しかし時間と理性の助けによって調和の中に解消する。  カントの『理性批判』は、我々の眼と耳が精神及び世界真理全体と不可分に連関していることを指摘したが、度外 れの精神に対する信仰が彼を迷わせて、人間精神及び世界真理の外に巨大精神及び空想的な超真理という神秘的存在 を認めさせた。カントは二つの世界、二つの真理を設定し、そこから、@人間の貧しい小さい家来の悟性と、A法外 にして異常な「主人」の精神という二つの知性が生じるとした。しかし、すべての精神は一般的精神という性質を持 っているのであるから、このような異常な謙遜は不合理である。各々の思想は必然的に普遍的な思想の性質を持ち、 合理的に、一つの・普通の・経験的な・世界の一部分・一定の部分なのである。