ディーツゲン『人間の頭脳活動の本質』(岩波文庫)  論理学に関する手紙 2006年9月29日 【1】 緒論――私の企て ◎私はラテン語もギリシア語も殆ど知らないが、それでも、研究も地位も最高の(optima forma)ドイツ国立大学の 教授よりも、より良くお前を論理学の奥底へと導きうるという自信を持っている。(p.139) ○子供にとっても、そしておそらくは民族にとっても、幼少の時には権威が欠くべからざるものである。そして教師 にとっては、彼が子供を教えるにしても民族を教えるにしても、或る信念が彼に与える威光が必要である。(p.140) ○しかし、わからないという嘆きの責任の大部分は生徒の考え方が間違っていることにある。精神的努力がなければ、 どんな新しいことも学べるものではない。(p.141) ○私の息子への手紙は、印刷されてもっと広い範囲の読者に行き亙るようにするという副次的な意図を持って書かれ る(p.142) 【2】 論理学とは ◎論理学は人間精神に固有な活動を人間精神に教え、我々の内面的な頭脳を正しくしようとするものである。論理学 の研究対象は思想、思想の本性及び思想の正しい秩序である。(p.144) ○論理学は他の諸科学と同じように、生の経験の神秘な源泉から知恵を汲み出してくる。……思想家は論理学に、彼 の思惟能力の明確な意識に、そして思惟能力の技術的な使用に到達する。(p.145) ○私は、論理学というこの問題が光栄ある歴史を持っているということを指摘するに止めよう。……私は私の思惟の 学問をいきなり、今までのすべての時代とすべての民族との力によって行亙っている最も明るい光の下で示すことに 努力しようと思う。このことが成功するならば、これから色々の著者たちについて講義する際に、籾殻を小麦からふ るい分けることが容易であろう。(pp.146-147) ○私はある著者から未知のことについての講義を受取るときには、私はいつでも、先ず問題について表面的に知り、 その多くの頁や節について知り、それから最後に端初に帰り、そして何度も繰返すことによって完全な理解に達する、 という方法をとった。対象をよく知るにつれて認識の力も成長し、最後に至って端初が明らかになった。このような 方法を私はお前に唯一の正しい方法として推薦することが出来る。(pp.148-149) 【3】 論理学は宗教的微光を帯びる ◎人はどんな個々のものをも物神にすることが出来るという事実を経験すれば、お前は、個々のものではなく、全一 のもの(das All)のみが真の神或は真理及び生命であることをはっきり確信するだろう。(p.153) ○しかしお前は、人間の魂を支配する対象は、その高さと貴さとの点ですべての対象と共通しているものであり、従 って常に同時に普通の対象でもある、ということを知らねばならない。このような意識を弁証法的に浄化しなければ すべての崇拝は物神崇拝である。(p.153) ○真理を天上に求めるか地上に求めるか、或は到る処で探すか又何処で探すかという問題は、同じように不可避的に 論理学者を牧師と接触させる。(p.154) ○一方において、その問題を無限性にまで広げ、論理的秩序を天上に至るまで、「すべての知識の最後の問題」に至 るまで確かめようとする形而上学的論理学と、他方において、自ら制限された領域を設け、形而下的世界における論 理的秩序の研究で満足する形式論理学との区別(p.154) 【4】 論理的主体は存在全体と連関している(1) ◎思想・知性は具体的に存在し、実際に存在する。そしてその存在は全存在の一部分として世界全体と同種類のもの として連関している。――これが思慮ある論理学の主要点である。(p.159) ○一者は他者と連関し、地球、樹木、雲及び太陽は連関においてのみ、すなわち世界連関全体においてのみ、かかる ものであるうるというためには、既に訓練された考え方を必要とし、そのことを一般に延長して認識するためには、 論理学の訓練を必要とする。……そして丁度、経済的無理解が経済的連関を見落とすように、論理的無理解は世界連 関を見落とす。(pp.157-158) ○事物の形態はその連関によって変わるものであって、全存在の部分としてのみ現に在る形をとるものである。 (p.158) ○論理学は区別の能力に関して、一般にどの学科も必要とするもの、すなわち真理と誤謬、空想と実在とを識別する 所以のものを我々に教えるべきである。この目的のために、誤謬及び空想もまた一つの、無限に或は絶対的に連関し ている現実界に属することを見逃さないように、私がお前に説くことを論理学は必要ならしめる。……空想と真理、 思想と現実も一つの自然の二種の質料であることを確認しなければならない。(pp.161-162) 【5】 論理的主体は存在全体と連関している(2) ◎「真理そのもの」は全一、無限者、無尽蔵のものである。その各部分は制限されないものの制限された部分であり、 従って同時に制限されており且つ制限されておらず、有限であり且つ無限である。各部分は、全体と分離せずに連関 しているところの分離した部分である。そのような部分の一つがまた人間精神である。(p.167) ○論理的に訓練されていない人にとって概念を混乱させるものは、一元論的な考え方の欠如である。ここで一元論的 と云うのは、体系的、論理的或は統一的と同じ意味である。(p.162) ○動物学者が動物界に対してなしとげたことを、論理学者は存在一般に対して、無限の宇宙に対してしなければなら ない。論理学者は、世界全体が、すべての形態の存在が、精神をも含めて、論理的に或は同種的に結合しており、近 親であり、血統を同じくしていることを指摘しなければならない。(pp.163-164) ○「真理そのもの」は全部が人間の頭脳に入るものではなく、おそらく断片的に入るだけであろう。だから本来我々 が持っているものは永遠に生々とした真理への衝動だけである。それ故概念或は認識は決して現実と一致するもので はなく、いつでもその一片であるにすぎない。(p.167) 【6】 真理の普遍的概念 ◎論理学は人間の頭脳の普遍的解明を志すものであるから、すべての真理の総計がその専門である。とすれば、この 目的のためには、その他の知識の堆積よりも真理の普遍的認識の方が役に立つ。精神を技術的思惟のために解明しよ うとする論理学は、真の概念よりも、普遍的対象すなわち無限の存在全体と最も密接に結合しているところの一般的 絶対的真理概念を取扱う。(p.171) ○我々の論理学は教える。精神は存在全体の一片であり、精神を神として崇拝するものは偶像崇拝者である。彼は一 片を崇拝し、真理全体を見損なっているから。真理そのものは存在全体と、すなわち世界と同一であり、すべての事 物はその形態、現象、述語、属性或は移り変わる姿にすぎない。存在全体こそ神的と呼んでいいだろう、というのは、 それはすべての事物を特殊の真理として包括するところの無限者であり、アルファにしてオメガであるから。その時 には知性は神的真理――強調なしにそのまま世界と名づけられる――の中にそのように包括される一片である。 (pp.170-171) ○論理的な困難の大部分は最も包括的な範疇との交わりの欠如にある。……真理、存在、全一のような最も広い概念 との交わりが既に、知的明晰のための主要な訓練である。……私の考えによれば、論理学で問題にすることは、知的 主体の分析よりも、むしろ思惟能力の目的と客体、すなわち、知性自体によってではなく、知性と真理の世界との結 合によって、存在全体との連関によってえられるところの、思惟能力の養成である。(p.173) ○世界全体は無機的な断片の堆積ではなく、生きている過程であり、この過程はその諸部分においてのみでなく、全 体としても認識されなければならない。(pp.174-175) 【7】 言語について ◎単語は単に空虚な単語ではなく、世界の部分に対する、宇宙の波の環に対する名前である。言語、というよりもむ しろ言語と連関する精神が、無制限のものを言語によって制限しようとする。本能的な言語の使い方が多少そういう ことをしているが、意識的な科学は精密な方法でそれを実行する。(p.182) ○論理学が真理一般を取扱うのに対し、諸科学は諸々の真理に関して我々に教える。(p.178) ○ここで私は、事物の名前は、水上に石が落ちた場合と丁度同じように、環を形作るということを注意しておきたい。 水という名前と同じように、油という名前も環を持っている。次に、流動性という名前は更に広い輪を描き、その中 には水も油も含まれる。その次の名前は物質であって、環は更に広くなり、乾いたものも流動体のものをも含む。最 後に、存在或は全一が、精神と物質、すべての力と質料を、天国と地獄をも含めて、一つの環の中へ、一者の中へ包 括する。(p.181) ○私はただ、存在の多様性全体が矛盾なしに一つの性質のものであり、この一つの性質が分かれて多様の形態になる ということを理解させたい。(p.183) 【8】 世界における矛盾 ◎世界全体は無限にして無尽蔵の矛盾であり、この矛盾は無数の意味深い命題と反命題とを止揚して自己の中に含み、 これらの命題は決して消失しないが、しかし時間と理性の助けによって調和の中に解消する。(p.189) ○形式論理学は、我々の知性はすべての事物を分けるだけであって、まぜてはならない、と教える。……形式論理学 は、事物は分離しているだけでなく又連関している、という事物の逆説的な或は弁証法的な性質を見損なっている。 (p.185) ○矛盾とは何であるか、どんな意義があるか、に関する解明は、空想の最も遠い角にまで、天上及び永遠性にまで光 を行き亙らせ、全体の存在、すべての事物の統一と区別を明らかにするだろう。(p.188) ○世界は真理であり、誤謬、仮象及び虚偽はその中に潜み、真の世界の部分である。それは丁度、論理学を混乱させ ることなしに、夜も日の一部分であるのと同じである。(p.188)